東京大空襲 3月10日 1945年

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新型コロナウイルスによる感染拡大によりほとんどの祭やイベントが中止になり、緊急事態宣言解除後も密を避けるために、また準備不足などで秋までは中止の続く日々が続きそうです。

本ブログも一時中止していましたが、過去の祭やイベントを掲載することで気分だけでも東京の江戸情緒や楽しさを味わっていただけたらと思います。

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初めて東京が大空襲に見舞われたこの日、たった一日で死者十万人、罹災者の数は百万人以上といわれる。

 

毎年3月10日には墨田区両国にある都慰霊堂で犠牲者を弔う法要が開かれる。

東京都慰霊堂の写真

東京都慰霊堂

2020年の今年は新型コロナウイルスの感染拡大により、その防止策の一環として皇族や知事の出席は取りやめ、例年六百人が詰めかける会場も遺族代表ら九人のみの参列となった。
私も法要後の一般参列としてお参りした。

東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑の写真

東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

足立区出身の作家・早乙女勝元氏はこの大空襲を経験し、作家になってからは空襲の記憶を風化させまいと著作「東京大空襲 昭和二〇年三月十日の記録」「戦争と青春」を表し、講演等を通じて生涯を戦争の記録に費やした。
2002年にオープンした東京大空襲・防災センターの館長にも就任した。

横網町公園の写真

東京都慰霊堂横網町公園内にある
東京都慰霊堂の三重塔の写真
東京都慰霊堂の祭壇の写真
三重塔・祭壇

 

慰霊堂を後にして同じ両国にある回向院に向かう。

回向院の写真

回向院

ここは今から三百六十三年前の明暦三年正月に起きた明暦の大火で亡くなった方々を慰霊するために建てられた。

火事は江戸本郷の本妙寺より出火。
居合わせた初詣客の振袖に火が付き、風速二十三メートルという台風並みの北風で関東特有の空っ風にあおられ、またたく間に大江戸八百町を焼き尽くし、十万人という当時の江戸住民の三分の一にあたる死者を出した大災害となった。
別名振袖火事である。

 

この火事をきっかけに大江戸の大整備が行われ、橋が一本しかなかったため逃げ遅れて死んだ者あまたの教訓から両国橋が架けられた。
三、四十万石にも及ぶ莫大な費用をかけて町人救済策が取られたため、焼け落ちた江戸城天守閣は今もなお再建されていない。
それは封建社会において住人第一の理念と、戦争は起こさないというメッセージとなり、徳川幕府の安定と再整備による世界一の百万都市誕生へと続く決意表明でもあった。

 

明暦の大火と大正時代の関東大震災、そして東京大空襲大災害に打ちのめされながらも不死鳥のごとくよみがえる。

しかもさらに拡大し続ける江戸・東京だがそのパワーとエネルギーは常に市民の力にある。
合掌。

 

翌3月11日、2011年に東日本大震災が発生した日である。

観測史上最悪のマグニチュード9・0、震度8を記録した大地震と、それにともなう津波三陸海岸を呑みこんだ。

その津波による福島原発事故による放射能漏れ、最悪の事態が三つ重なり死傷者の数以上に深刻な問題が今も続く。大空襲と大地震、六十六年の時を経て、一日違いの大惨事は我々が決して風化させてはならない出来事である。

天災は怖い、だが最も怖く大きな被害をもたらすのは人災であるということを。