有楽忌 11月13日(2017年)

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新型コロナウイルスによる感染拡大によりほとんどの祭やイベントが中止になり、緊急事態宣言解除後も密を避けるために、また準備不足などで秋までは中止の続く日々が続きそうです。

本ブログも一時中止していましたが、過去の祭やイベントを掲載することで気分だけでも東京の江戸情緒や楽しさを味わっていただけたらと思います。

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私が習っている茶道は有楽流という。

宗祖は千利休から教えを受けた大名茶人織田有楽斎
織田信長の弟である。
有楽町の名の由来になったともいわれている。
その有楽忌法要茶会が京都・建仁寺の永源院で行われた。 
尾州有楽流が薄茶席、濃茶席では有楽斎の手紙を軸(掛け軸)にし、有楽斎手作り赤楽茶碗、同茶杓など縁の道具を揃えての法要茶会はさすがである。

有楽流は全国に広まっているが、他の大名茶と同様、各地にある多くの道場は織田家・有楽斎の家系の者が宗匠や家元というわけではなく、茶頭(ちゃとう)といって大名や殿様に仕えていた茶の専門家が茶会などを取り仕切っていたようである。
しかし明治に入って録を失うと茶頭は家元から流派を名乗ることの許しを得て独立し、茶道を教えることを生業(なりわい)にしたと思われる。

茶頭とはその流派における茶の専門家である。
私が習っているのも有楽斎が興した有楽流の茶頭の流れである。
利休も秀吉の茶頭であった、と言ったらわかりやすいだろうか。
そもそも大名や将軍が趣味や楽しみで茶頭から茶道を習っていて大変上達したとしても、本業で毎日茶道のことを考えている茶頭に敵うはずがない。
しかしそこは茶頭、お仕事である。
殿様相手に厳しくするわけもなく褒めちぎったに違いない。

「さすが上様。ご上達の早さ常人の及ぶところではございません」
「さすが上様の御心眼、この茶頭めには考えもおよびませなんだ」

さんざんに持ち上げたところでようやく小さなことを指摘する。
そうでもしなければご機嫌を損なって首になるか、怒られて本当に首が飛ぶ。
利休だって殺されたほどだから、教えるのも命懸けである。
何しろ時代は戦国の世である。
織田有楽斎関ヶ原の戦い大坂の陣など波乱の時代を生きた武将である。

そんな中でも利休七哲に代表されるような茶の湯の虜になった古田織部のような「へうげもの」大名の一人が有楽歳だった。
それでも茶の席で準備や片付けなどの下働きなどするはずもなく、そうしたことは茶頭任せであったことは想像に難くない。

侘茶の茶室には、にじり口という小さな入口がある。
「誰もがその茶室に入るときは頭(こうべ)を垂れなければ入れない。これが茶道の心である」などと聞くと、「なるほど茶室の中ではみな平等か」と納得するが、実はこの侘茶室にはたいがい貴人(きにん)口という、頭を垂れなくても立ったまま入れる入口がある。
いわゆるお殿様用出入り口である。
この入口を見るたび殿様や将軍が茶道の神髄を御理解していたか疑わしく思う。
茶頭たちにとっても妥協の産物のはずなのだが、先生である茶頭と生徒であるお殿様の立場が垣間見える入口である。