小堀遠州供茶式 3月第一日曜 芝公園東京美術倶楽部

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新型コロナウイルスによる感染拡大によりほとんどの祭やイベントが中止になり、緊急事態宣言解除後も密を避けるために、また準備不足などで秋までは中止の続く日々が続きそうです。

本ブログも一時中止していましたが、過去の祭やイベントを掲載することで気分だけでも東京の江戸情緒や楽しさを味わっていただけたらと思います。

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古田織部の奇抜で独創性あふれる武家茶に学び、さらに進化させて「きれいさび」という茶の湯を作り上げた大名茶人で
利休、古田織部のあと将軍家茶道指南を務めた小堀遠州

 

現在も続く武家茶道・遠州流茶道の開祖である。
その遠州にちなんだ茶会。

 

茶道になじみのない方は茶道の流派といえば裏千家と思われる方が多い。
実際に茶道を習っている方の半数は裏千家であると思われる。
続いて多いのが表千家で、利休直系の流れを引くこの二流派で80%は占めているではなかろうか。

表裏(おもてうら)に武者小路千家江戸千家など利休の血統を次ぐ流派が圧倒的な数の門弟を有しているが、現在ある茶道流派は約四十あり、そのほとんどが武家茶なのはあまり知られていない。

 

利休と秀吉の時代にのちに利休七哲と呼ばれる高弟がいたが、この七人はすべて大名か高位の武家である。

それもそのはずで利休は将軍をはじめ大名たちに茶を教えて禄を食んでいた、いわば教えるのが仕事である。
教えを受けた大名・武家がたしなみとして会得し各大名家に伝わったのが武家茶である。

武家に伝わる茶は自分たちの楽しみで茶道を子孫や配下に伝えることはあっても、わざわざ外部の人間に教える必要がない。
仕事ではないからだ。
そのため武家茶は閉鎖的になりがちである。

 

町人である千家は教えることでずっと生計を立てているのに対し武家茶は明治になるまでお茶で生計を立てる必要がなかったわけである。
教えることに熱心で門弟を増やすのは企業として考えれば当然で、圧倒的な門弟数の差が生まれるのもうなずける。

そんな中にあって武家茶では珍しく積極的に茶道の流布に力を入れているのが遠州流と石州流である。

 

大名茶人・片桐石州は四代将軍家綱の茶道指南となってから各藩でも指南役となり、会津藩をはじめ全国の藩に門弟たちが広めていったため、江戸時代の中後期の大名や武家では石州流が圧倒的だったようだ。
いわば公儀の茶道は一時石州流だったと言っていいかもしれない。

そうした武家茶も明治維新で一変する。
碌が得られなくなったわけで、そのため衰退するが、全国にいた石州流の武家者は教えることにも慣れていたのか門弟を増やして存続する。

遠州流遠州亡きあと断絶したため途絶えていたが、幕末に子孫が三百石で召し抱えられたのを機に復活した。
それまでの間も茶道を教えていたらしく、こちらも明治に入ってからも教えることに熱心だったようだ。

 

他の武家茶は現在残っているのは三十家ほどで家元を中心にその伝統を守っている。
ただしそこはやはり武士の家系のためか、商売としての活動はしていないと感じる次第である。
それでこそ武家茶、ともいえるが。

などと考えつつ、旬のよもぎで作られた草餅を食べながら薄茶を点てる。

ヨモギで作った草団子の写真

ヨモギで作った草団子

ヨモギ大福の写真

ヨモギ大福