お米の日 8月8日

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新型コロナウイルスによる感染拡大によりほとんどの祭やイベントが中止になり、緊急事態宣言解除後も密を避けるために、また準備不足などで秋までは中止の続く日々が続きそうです。

本ブログも一時中止していましたが、過去の祭やイベントを掲載することで気分だけでも東京の江戸情緒や楽しさを味わっていただけたらと思います。

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8月8日はお米の日だそうだ。

 

米という字は分解すると八と十と八でできているところや、米を作るには八十八もの手間をかけているというところからこの日が選ばれたそうだ。
この日以外にも8のつく日をお米の日としてイベントが行われる。

 

お米は日本人に欠かせない主食であるが、近年はひとり当たりの年間消費金額でついにパンに抜かれたそうだ。
パンは三万円に対し、米は二万四千円ほどである。

実は私がどのくらい米を消費しているか調べたところほぼ月に五kg。
年間六十kgである。
これは米一俵に相当し、五キロがだいたい二千円とすると、見事に日本人の平均値に当てはまるのである。

パスタやそば、うどん、それにパンも日常的に食べているから、たしかに米を食べる量は減っているのだろう。

 

私は農業の経験は皆無であるので少し調べてみると、一反の田んぼ(十アール)で採れる米は玄米で四百二十kg、精米すると三百八十kgになるそうだ。
これは米俵で約六俵、年間六人分の米がまかなえる数字である。

江戸時代、一反で採れる米の量を一石(いっこく)とし、上級武士の給料を払う単位にされていた。
下級武士は俵で数えられて給料をもらっていた。

ここでクイズ。
年俸五十石の上級武士と年俸百五十俵四人扶持(ふち)の下級武士がいたとする。
さて、どちらが多く給料をもらっているか?

 

現在の一反六俵の計算なら、上級武士の年俸は三百俵である。
下級武士は扶持米と言う扶養家族ひとり当たり年間一石(男一日五合、女一日三合の計算)の食い扶持が追加される。
つまりプラス四石で二十四俵になるから百七十五俵。

圧倒的に上級武士がもらっているようだが、さにあらず。

一反六俵が穫れるようになったのは戦後のこと。
江戸時代の中期には一反で採れる米の量は、二・五俵、後期になってようやく三俵である。
つまり現在の半分しか収穫できなかったわけだ。

そこで計算し直すと、上級武士は百五十俵、下級武士が百六十四表で下級武士のほうが多くもらっていることになる。
はい、引っ掛け問題である。

俸祿は全額手元に残るわけではなく、四公六民や五公五民の税金を収めなければならない。
早い話が手取りは半分ほど。
平均的な百五十俵の下級武士でも生活はかなり苦しかったようだ。
サラリーマンはいつの世も辛いのである。

 

しかし米の収穫は随分と改善されたことがおわかりだと思う。

江戸時代、米はイコールお金であったから、稲の改良増産は切実であったに違いない。

ちなみに江戸の初期、一両は三・四石だったがやがて、小判の価値は下がり続け、江戸末期には一両が一石にまで下がった。
これは金の価値が下がったというわけではなく、幕府が財政に困り、発行する小判の金の量を減らしたことが大きい。

ざっと考えても小判の大きさ重さが三分の一以下になったということだろう。
江戸初期の小判と末期の小判を見比べればその大きさの違いに唖然とするはずである。いかにもその場しのぎの対策である。

明治に入っても政府のやり方は変わらず、一両が一円と名前が変わったが、通貨の価値はどんどん下がり続けた。
現在のアルミの一円玉を見れば、その暴落ぶりが実感できるというものである。
通貨の地位は不安定だが、米と金の価値はゆらぎないものであった証でもある。

 

日本人ひとり当たりの米の消費量が年間一俵の現在からすると、江戸時代の扶持米が一石(約三俵)である昔の日本人は我々の三倍米を食べていた。

坂口安吾の「堕落論」に江戸時代末期の日本人は一日一升飯を食べていたという記述がある。
一日一升つまり十合、月に三十升! ひと月に約一俵、現在の我々の十二倍平らげる計算である。
扶持米などというのは単なる渡す側の都合であって、実際はそれでは全く足りなかったということだろう。
そんなことに思いを馳せる「お米の日」である。