上野彰義隊百五十回忌墓前法要 上野寛永寺 5月15日(2017年)
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新型コロナウイルスによる感染拡大によりほとんどの祭やイベントが中止になり、緊急事態宣言解除後も密を避けるために、また準備不足などで秋までは中止の続く日々が続きそうです。
本ブログも一時中止していましたが、過去の祭やイベントを掲載することで気分だけでも東京の江戸情緒や楽しさを味わっていただけたらと思います。
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大政奉還後の慶應四年に旧幕府が江戸の治安維持をまかせたのが彰義隊である。
旧一ツ橋藩の側近らによって生まれた隊である。
奉還後であったが新政府軍と彰義隊との小競り合いは続き、ついに上野寛永寺の広大な境内において西郷隆盛率いる大軍と激突する。
熾烈を極めた戦いは半日で終わり、二百名の犠牲者を出して彰義隊は壊滅した。
参謀だった大村益次郎が新政府の威信を見せつけるためにおこなったとされる、いわば虐殺である。
賊軍として当初野ざらしにされていた遺骸もその後墓所が建てられ、思想の違いこそあれ、信義忠義に生き殉じた武士に対しじょじょに法要が行われるようになる。
その彰義隊が散ってから百五十回忌の法要が旧寛永寺、現在の上野恩賜公園において盛大に営まれた。
この彰義隊といい会津の白虎隊、新撰組もそうだが、日本人は勝った側より負けた側に思い入れが強い。
判官ひいきとも言うが、それだけではなく、サムライの美学として、いかに死ぬかという、死に際の美学があるからだと思う。
勝って永らえて栄華を極め天寿を全うするというのは、なぜか武士にふさわしくない。それは政治家の生き様である。
時代劇などでよく見られる、嫌われ役というか、悪役の武士というのはたいがい政治家的な武士である。
戦闘集団である武士は平和の世の中には役立たずだ。
乱世に生きて戦って死ぬ、それでしか本来存在価値がないのが武士。
太く短く強く潔く。
だから男の子は憧れるのである。