沖縄本土復帰記念日 5月15日

---------------------------------------------------------

新型コロナウイルスによる感染拡大によりほとんどの祭やイベントが中止になり、緊急事態宣言解除後も密を避けるために、また準備不足などで秋までは中止の続く日々が続きそうです。

本ブログも一時中止していましたが、過去の祭やイベントを掲載することで気分だけでも東京の江戸情緒や楽しさを味わっていただけたらと思います。

---------------------------------------------------------

 

終戦から二十七年後の1972年5月15日、アメリカに接収されていた沖縄がようやく本土復帰を果たした。

沖縄の歴史はこのことを含め苦難とともにある。

 

琉球としてのグスク時代と続く琉球王国時代、独立王国でありながら朝鮮、中国、日本と三つの大国の中間に位置していた関係から針のむしろの外交が続く。
無理難題や法外な貢物を課せられていた。
大国同士の戦いには常にどちらにつくかという決断を迫られる。
賦役や奴隷にも人を差し出さなければならない。

 

こうした大国に挟まれた小国の悲哀は、琉球王国だけでなく、ロシア・中国・日本に囲まれた朝鮮、北欧におけるスウェーデンとロシアに囲まれたフィンランドバルト三国に見て取れる。

平和の時はまだいい。
ひとたび戦争が起これば、フィンランドなどはスウェーデンがロシアに攻め込むときはスウェーデン兵として、ロシアがスウェーデンに攻め込むときはロシア兵として先鋒を担わされた。

どちらにつくにしろ被害が一番大きいのはフィンランド人と言う絶望的な構造の中に存在していたのである。

私などはそんな状況の中よくぞ生き残ったものだと感心しきりなのだが、世の中はそう単純でもない。

大国に挟まれた小国の存在は大国同士にとっても国境のクッション代わりになる。
組み入れるより独立国家として存続させておいた方が都合のいい場合があるのである。

 

琉球王国もそんな位置にあって朝貢と貿易など外交を巧みにして生き残っていたが、江戸時代の1609年薩摩藩琉球侵攻により、薩摩藩支配下になり、翌1610年には当時琉球王国であった奄美大島や徳之島を含む奄美群島を割譲させて薩摩藩とした。

事実上薩摩藩傘下であっても、琉球が江戸に使者を送るときは使者に中国服の着用を義務付けられたとか。
民族の尊厳を傷つけられてもただただ忍従するしかない時代である。

鹿児島の名産物に薩摩芋がある。
しかしあの芋はもともと琉球王国から持ち込まれた芋でその名も琉球芋だったそうだ。いつの間にか名前が変えられたわけである。
私はこのことを聞いた時、人間の傲慢さにひどく落胆した覚えがある。

 

1853年アメリカのペリー提督が琉球に上陸、大統領親書を琉球国王に渡して事実上傘下に収めると、翌年日本幕府に開国をせまり、日米和親条約が締結されて日本は開国した。
そのままアメリカ支配が強まるかと思われたが、米国で南北戦争が勃発し、日本および琉球への支配は弱まった。

 

明治維新が起こると1872年(明治五年)琉球王国は強制的に併合され薩摩藩となり、ここに琉球王国五百年の歴史は幕を閉じ滅亡した。
1879年(明治十二年)沖縄県として名称変更し鹿児島から独立県となったのである。

しかしその後中国・清が琉球諸島を外交によって手に入れようと画策し、一時は宮古島など先頭諸島が清に割譲されそうになったが、その後の日清戦争での日本の勝利によって回避される。

 

太平洋戦争が起こり日本軍が劣勢になると、アメリカ軍は本土に先駆けて沖縄を総攻撃する。

市民を巻き込んでの絶望的な戦い、那覇市の90%が焼失そして降伏。

終戦後は「琉球王国は独自の国家であり、日本によって無理やり併合された」との理由からアメリカに接収されるが、日本でもアメリカでもない単なるアメリカ軍の基地として利用され、住民は土地を奪われマラリアの蔓延する土地に強制移住させられるなど辛酸をなめることになる。

産業など育つ余地もなく、住民は貧困に陥り、アメリカからも日本からも差別を受けるに至り、住民は反発、デモというささやかな反抗を続けるしかなかった。

 

そんな中で記憶に残る出来事に1958年の夏の高校野球甲子園大会がある。

この四十回の記念大会を機に沖縄からも代表チームが参加することになった。
まだ沖縄はアメリカ領で、沖縄予選を勝ち抜いた首里高校の選手はパスポートを持っての参加である。
試合は一回戦で負けたが、球場に「オキナワ」コールが沸き起こったという。

選手たちは想い出に甲子園の砂土を持ち帰る。
しかし那覇港で「植物検疫法」に触れるという理由から甲子園の土は検疫官によって海に捨てられてしまったのである。
たかが土であるだけにこみ上げる無念はどれほどだっただろう。

 

そしてようやく、遅すぎる本土復帰である。

1972年のこの日、私は大学の一年生だった。
それから四十六年の月日が流れたが、沖縄が抱える米軍基地問題と日本政府のおざなりの対応はあまり変わっていないように見える。

 

私は茶花を飾るとき、和花しか使わない。

夏7月は朝顔や鬼灯(ほおずき)、槿(むくげ)、百日紅さるすべり)とともにハイビスカスを活ける。
沖縄市の花であるハイビスカスはもちろん和花である。

ハイビスカスの写真

ハイビスカス