あじさい忌 林芙美子記念館 6月28日
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新型コロナウイルスによる感染拡大によりほとんどの祭やイベントが中止になり、緊急事態宣言解除後も密を避けるために、また準備不足などで秋までは中止の続く日々が続きそうです。
本ブログも一時中止していましたが、過去の祭やイベントを掲載することで気分だけでも東京の江戸情緒や楽しさを味わっていただけたらと思います。
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花の命は短くて苦しきことのみ多かりき
林芙美子が色紙を求められると好んで書いた言葉である。
花は女と置き換えて解釈される。
代表作である「放浪記」「めし」「浮雲」を思い浮かべ、清貧、男との苦労、女であることの哀しさが描かれていることと林芙美子の人生を重ね合わせると、「多かりき」と言い切ってしまっていることがあまりにも重く切ない。
父親に認知されずに生まれ、両親の行商などを手伝いながら各地を転々として育ったが、周囲から文才を認められて進学した。
女学校卒業間近に恋人を追って上京。
女給や女工などを経験したが恋人に捨てられる。
恋多き女でその後も同棲を繰り返すなか激しいDVにも遭うなど貧しさのなか愛を追い求める生活が続いた。
作家を志し下積み生活のあと連載した自伝的小説「放浪記」の単行本が大ヒットして一躍売れっ子作家になったが、貧しかった少女時代や売込みに苦労した時代があったため、来る仕事の依頼は原稿に限らず講演会も断らなかったという。
それでも文壇の評価は「貧乏を売り物にして思想がない」、戦時中は「軍部のいいなり」などと酷評された。
しかし戦後になると、苦難の中にもたくましく生きる女性を描いて、評価はようやく高くなってゆく。
1949から1951年にはなんと新聞雑誌に中長編九本を同時連載。
そんな多忙のさなか1951年6月26日料亭取材後に倒れ,28日死亡。
享年四十七歳。
世間はジャーナリズムに殺されたと悲しんだ。
約二十年間の作家活動の中で書いた原稿は三万枚だという。
単行本百冊の量である。
映画化ドラマ化された作品も多い。
「うず潮」「晩菊」「泣き虫小僧」「妻」「あばれ人妻」等ヒット作は数多く、まさに昭和を代表する人気女流作家である。
その人生はやはり「苦しきことのみ多かりき」だったのか。
その冒頭の言葉「花の命…」は作品のなかには見えず、長い間色紙用の言葉と解釈されてきたが、二十一世紀に入ってその全文が発見された。
名言は未発表詩にあった。
題名はないという。
風も吹くなり
雲も光るなり
生きてゐる幸福(しあわせ)は
波間の鴎のごとく
縹渺(ひょうびょう)とたゞよひ
生きてゐる幸福は
あなたも知ってゐる
私も知ってゐる
花の命は短くて
苦しきことのみ多かれど
風も吹くなり
雲も光るなり
何とここでは「苦しきことのみ多かれど」と言い切らず、続けて「風も吹くなり 雲も光るなり」と希望を指し示している。
なぜかホッとする。
林芙美子は絶望の中で生きてはいなかった。
終の棲家となった下落合の家は芙美子が家族楽しく暮らせるようにと心をこめて建てたのだという。
現在は林芙美子記念館になっており、命日である6月28日には普段未公開の家の内部を見学できる。