和食の日 11月24日(2019年)
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新型コロナウイルスによる感染拡大によりほとんどの祭やイベントが中止になり、緊急事態宣言解除後も密を避けるために、また準備不足などで秋までは中止の続く日々が続きそうです。
本ブログも一時中止していましたが、過去の祭やイベントを掲載することで気分だけでも東京の江戸情緒や楽しさを味わっていただけたらと思います。
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和食の日は、「和食 日本人の伝統的食文化」がユネスコの無形文化遺産に登録されてから制定され、今年で六回目になるそうだ。
ちなみに日にちは「いいにほんしょく」の語呂合わせらしいが、やや苦しい。
しかし和食と言って何を指すかはかなりあいまいである。なんとなく出汁を使って日本で取れた食材で作る料理…のような気もするがあまり自信がない。
作られる食材も年々増え、マンゴーやブロッコリーからチョウザメやエミューの養殖まで世界中の食材が日本で作られているが、果たして、エミュー肉のアスパラガス添えを小豆島産のオリーブオイルで調理し、トマトとブロッコリーの味噌汁とご飯にキャビアを乗せたものを作ったらそれは和食なのか?
では明らかに和食と思われる梅干しの握り飯と、玉子かけご飯ではどうか。
和食であるし、とてもおいしいが、果たして無形文化遺産に選ばれるだろうか?
まぁ和食の一部かもしれないが少なくともメインではない。
和食という日本が誇る文化のイメージはどちらでもない。
おそらく我々が持つ和食の神髄は料亭や旅館で饗応する会席料理であり、禅僧が口にする精進料理であり、茶人が客をもてなす懐石料理なのだろう。
そこにはいずれも出された料理の意味や作法が存在する。
和食の特色とされているのが季節を大切にする点である。
料理を見れば、それが何月なのかがわかるほどである。
そこで京都の料亭献立や茶懐石で供される献立を見てみた。
気づくのは普段我々の食生活にどっぷり入り込んでいる食材が全く使われていないことだ。
それはトマト、ジャガイモ、玉ねぎ、レタスである。
この四品は必ず買い求めるというご家庭は多いはずであるが和食の本丸では使われないのである。
牛、豚、鶏肉などの肉類もほとんど献立に上らないが、たまに鴨肉(かつてはキジ肉)が使われる程度である。
メイン料理は何かといえば魚介類である。
鯉、鮎、鰻、鮭、の川魚に、海の幸である穴子、ハモ、マグロ、鰹、ブリ、ズワイガニ、ハマグリ、サザエ、ウニ、ホタテ、フグ、イクラ、からすみ、アワビ、伊勢海老に車海老といった旬の高級食材が並ぶ。
野菜や山の幸ではタケノコやマツタケ、銀杏、フキノトウ、ウド、ヤマトイモ、シイタケ、冬瓜などである。
料理の彩として赤色には京人参、青(緑)には絹サヤや山椒の木の芽がよく使われる。
懐石の基本は一汁三菜である。
汁物(みそ汁)のほかに向付(むこうづけ)もしくはお造りの刺身、煮物碗、焼き物である。
煮物碗、もしくはただ椀物と呼ばれるものは一汁三菜のメインともいえるもので、ハマグリのお吸い物や、鯛の煮物、海老のしんじょ、松茸の椀物などである。
焼き物はギンダラの西京焼やブリの照り焼き、鯛の尾頭付き塩焼きなどのほかにズワイガニの焼きガニや茹でガニ、サザエのつぼ焼きなども供される。
これにご飯が付けられる。
一汁三菜にわざわざ謳わないのは、日本人にとって食事にご飯を食べないということはハナから考えられないことだからだろう。
作法としては汁物はお代わりはないが、ご飯は逆にお代わりしなくてはいけないと言われてきた。
仏教的な意味で一膳飯は仏に備えるものであって縁起が悪いというもの。
ご飯のお代わりなんてそんなに食べられません。
という方はごく少量をお代わりする。
禅僧たちの食する精進料理では肉魚を食べないため、豆腐や湯葉料理が発達した。
栄養の偏りを考慮してご飯にゴマをたっぷりかける。
出汁にも鰹節を使わないため、野菜の皮や残り物の食材すべてを煮込んだ出汁を取る。
お膳の上の食器は左下に飯椀、右下に汁椀、上に向付の並び。
煮物碗が来たら置く場所がないので汁椀を下げる。
焼き物は向付と交換か、空になった向付の器に盛りつける。
飯椀汁椀蓋つきの漆塗である。
余談だが、茶碗とはお茶を飲む器のことであるはずなのに、いつの間にか、茶碗とは一般に飯椀を指すことになってしまっているのは不思議である。
酒はずっと飲み続けるというスタイルだ。
今はまずビール、ということで構わないようだが、料亭で生ビールというのはまず見ない。
瓶ビールのみである。
衛生面を考慮してのことらしいが。
しかしかつて日本人の食事に酒といえば燗酒である。
さて長々と和食について書いてきたが、これらが和食の本堂であるとしたら、我々は年に何度和食というものを食べているのだろう。
世界に誇る和食の文化とは言うものの、実態はほぼ絶滅危惧種に近い。
豪華な食材でなくてもいい、秋刀魚や塩サバの一夜干しに小松菜の味噌汁、大衆魚のお刺身が向付、大根や里芋の炊き合わせなど素朴な一汁三菜でいい。
本来の懐石料理は懐を温めるくらいの質素な食事である。
そんな和食を私は週に一度は自分で作って食べるように心がけている。
日常生活では縁遠くなった和食だが、宴会や旅館の御馳走など、ある種非日常世界ではまだまだ健在である。
そちらの世界では、本来一汁三菜だが、お膳そのものが二の膳三の膳と増えていったようである。
膳そのものがひとつでも、三菜の後八寸(八寸の大きさの木地の角盆に手前に海の幸、奥に山の幸を盛った盆)が出、そのあと薦め肴、強肴(しいざかな)と進む、実質一汁五菜とも六菜ともいえるものになっており、宴会用会席料理(こちらの会席はご馳走の意味になっている)へと変化し、八寸は先付のように出されるようになり、ほかの料理は単に見た目の豪華さを競うようになってしまったようだ。
創作和食も加わり、和食っていったい何なのか混乱し、「和食は面倒で作るのが大変」というイメージを確立してしまったのは残念である。
枝葉の華やかさに惑わされると本質を見失ってしまう。
まずは基本に帰ろう。
この和食の日にちなみ全国の幼稚園・小中学校で和食文化を学ぶイベントが開かれる。
和食の専門家たちによる出前授業や給食の実施で、今年は全国九千五百か所で行われた。