義士祭 12月14日
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新型コロナウイルスによる感染拡大によりほとんどの祭やイベントが中止になり、緊急事態宣言解除後も密を避けるために、また準備不足などで秋までは中止の続く日々が続きそうです。
本ブログも一時中止していましたが、過去の祭やイベントを掲載することで気分だけでも東京の江戸情緒や楽しさを味わっていただけたらと思います。
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12月14日は赤穂浪士による本所松坂町にあった吉良邸討ち入りの日として知られる。
日本三大仇討の中でも最もよく知られた事件として、歌舞伎や映画でもおなじみである。
見事主君、浅野長矩の敵(かたき)を討った赤穂藩の浪人四十七人はその後泉岳寺で自決する。
四十七士の墓所でもある泉岳寺では毎年12月14日に義士祭が行われ義士たちを慰霊している。
泉岳寺は曹洞宗の禅寺である。
赤穂義士記念館を持ち、討ち入りの12月14日と、浅野長矩の命日である春の二回慰霊祭を行っている。
12月14日は11時から浅野長矩公之墓前供養、12時から東阿部流煎茶道による献茶式と義士追善供養が行われる。
初めて行ってみて驚いたのがさほど広い境内ではないのに、ものすごい屋台の数があるということ。
焼きそばやたこ焼き、お好み焼きなどの定番のほかに「討ち入りそば」なるそばを売る屋台のそば屋も。
屋台の方の説明によると、「討ち入りは冬の夜明け前。赤穂浪士たちはきっとこのようなそばを食べて温まってから討ち入りしたと思うんです」と99.9%推測の域を出ない名物そばであるが、客はというと誰もまともに聞いている風もなく、ただただ寒いために列をなしていた。
その後、赤穂義士たちの墓参は大変な行列でおよそ三十分以上の待ち。
浅野家の墓、大石内蔵助の墓、堀部安兵衛の墓、赤垣源蔵の墓とおなじみの名前がずらり。
弱冠十六歳の大石主税(ちから)の墓の前で思わず神妙になる。
たいていは若侍で禄も低いか無いものが多い。
年寄りは仇討をしてそれで満足かもしれないが、若く禄も得ていなかった侍たちは何を思って忠義に果てたのか。
貧困にあえぎながらもなぜ討ち入りの時をひたすら待っていたのか。
などと、併設されている赤穂義士記念館と義士木像館の木像を見ながら思いにふける。
そうこうするうちに人出がずいぶんと増えてきた。
参道を挟んで皆まだかまだかと待ち構えている。
毎年義士に扮した財界二世学院の行列が本所を出発して泉岳寺に到着する予定の午後三時になったからだ。
討ち入り当日の翌朝も赤穂浪士たちは本所から泉岳寺まで三時間ほどかけて歩いてきたという。
その故事に習っての行列である。
四十分遅れほどで到着した平成の義士たちは大勢に迎えられたものの、大変お疲れの様子でどうにもしょぼくれた感じに見えて同情を禁じ得ない。
年齢的にも浪士というよりは老士。
ともかく最後の力を振り絞り、参拝客と「えいえい、おー!」と共に勝どきを挙げたあと、四十七士墓にお参りに行く。
これで主だった行事は終わり。
帰りに仲見世では山鹿流の陣太鼓のおもちゃなどに交じって、赤穂の塩が売られており「ほっほう」と思う。
浅野家と吉良家のいざこざは、赤穂の塩の利権をめぐっての争いだったとの説があるからだ。
ほかにも名物「切腹饅頭」を売っていた。
それでふいに思い出した。
以前、三宅島が噴火した後、島民避難が続いている中、港で名物の「明日葉饅頭」が「大噴火饅頭」と名前を変えて売っていた。
その時は「う~ん」という気持三分、人間のたくましさに感服したのが七分だったが、切腹饅頭はやっぱりやりすぎでしょうね。
と思ったが、なんでもお詫びでの手土産用に人気なのだとか。
笑わせて許してもらうということか。