二百十日

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新型コロナウイルスによる感染拡大によりほとんどの祭やイベントが中止になり、緊急事態宣言解除後も密を避けるために、また準備不足などで秋までは中止の続く日々が続きそうです。

本ブログも一時中止していましたが、過去の祭やイベントを掲載することで気分だけでも東京の江戸情緒や楽しさを味わっていただけたらと思います。

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8月後半に入った。

 

処暑とは暑さが落ち着く時期のことだ。
そして立春から数えて二百十日目、雑節のひとつである二百十日がやってくる。

毎年9月1日ころにあたり台風襲来の時期で、稲の開花・結実する大切な時期にあたるため、八朔(旧暦八月一日)、二百二十日とともに農家にとって三大厄災の日にあたる。

 

2016年は二百十日と二百二十日の間に台風襲来が相次ぎ、北海道と岩手県で死者二十二名、行方不明者も出した。

宮沢賢治の「風の叉三郎」や夏目漱石の「二百十日」にも二百十日にあたる日に強風が描かれている。

台風ではないが関東大震災が起きたのも9月1日だった。
そうした天災のイメージがあるため、9月1日は防災の日に定められ、学校、町内会、マンションの理事会などで避難訓練が行われる。

立春から数えるため年度で移動する。
2020年の二百十日は8月31日である。

 

前節気では戦争と原爆による鎮魂とオリンピックや高校野球などのスポーツの熱について書いた。

リオオリンピックで日本選手がたびたび好成績を残し「52年ぶりのメダル、52年ぶりの快挙」という言葉が舞った。
その五十二年前の10月に東京オリンピックが開催された。

メダルラッシュに日本中が熱狂するなか、そのわずか四か月前の6月16日に起こった新潟地震のことを覚えている人は少ない。

 

当時小学生だった私はオリンピック開催のため日程が前倒しされた新潟国体の閉会式にマスゲームで出場した。

そのわずか五日後に地震が起こった。
マグニチュード7・7、当時関東大震災の7・9に次ぐ規模であった。

我が家はほぼ全壊し、近くの川が決壊して一面水浸し、ビルや橋は倒壊し、新潟石油の石油タンクが次々に爆発した。
化学消防が整備されていなかった当時は消すに消せず、石油の燃えた黒煙で空は一週間以上覆われ、昼も暗かった。

津波が襲いかかり一万戸以上が流された。
ライフラインが止まり余震の続くなか怖くて外で寝た。
世界中から救援物資の水や毛布などの日用品やおにぎりが届いた。
人の善意がありがたかった。

 

地震保険もなかった時代である。
夜逃げ同様にいなくなった同級生、毎年地震発生の日の同時刻になるとおびえる同級生がいた。

壊れて床がひどく傾いた家に二年近く過ごした後、仮設プレハブ住宅に移った。
その後私の一家は引っ越したが、二十五年後に訪れた時、仮設のはずがまだ住民がかなり住んでおり、スラム化していた。

 

当時のトラウマのせいか、現在でも各地で起きる災害をテレビであっても正視できない。
ボランティアに行かれる友人もいるが、私は近づくことすらできないでいる。

 

なぜ、私的なことを長々と書いたのかというと、リオオリンピック開催の三か月前にも熊本地震が起きているからだ。

日本は災害列島である。
私のような体験をお持ちの方は多くいる。
しかし人の善意は飽きやすい。
オリンピックという大きな祭典を機に善意が薄れてしまわないか心配である。
私にとってオリンピックと災害は合わせ鏡なのだ。

「かわいそう」には人の善意が向けられるが、悲惨すぎると人は見なかったことにする。
私の被災経験である。

 

 君が代二百十日は荒れにけり   子規