秋彼岸・墓と葬儀について

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新型コロナウイルスによる感染拡大によりほとんどの祭やイベントが中止になり、緊急事態宣言解除後も密を避けるために、また準備不足などで秋までは中止の続く日々が続きそうです。

本ブログも一時中止していましたが、過去の祭やイベントを掲載することで気分だけでも東京の江戸情緒や楽しさを味わっていただけたらと思います。

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名月を堪能した後、すぐの9月19日は秋の彼岸入りである。

さて、この時期になると考えさせられるのがお墓のことだ。

最近の風潮としては、身内が亡くなってもお通夜葬式なしの直葬、もしくは家族葬、埋葬なし、お墓なし、散骨、樹木葬なるものまで登場してきて、簡素質素が主流になりつつある。

 

何も無理に盛大にすることはないにしろ、ことがことだけに単に一時の風潮に流されていいのかと思う時がある。
なにしろ何百年も続いてきた葬儀の流れである。

 

故人が天寿長寿をまっとうした場合、なおかつ本人の望みがそうであればまだいい。
しかし葬儀やお墓というのは残された人の故人への思いが反映される。
我が子が若くして亡くなった場合、「簡素質素でいいんじゃない」とはほとんどの親御さんは思わないだろう。


人生に未練残して亡くなった無念を、また親としての後悔がそうはさせない。
墓参りに行ってよその墓の墓誌を眺めるとそんな方々の強い思いがひしひしと感じられるのだ。
できるだけのことをしてあげたいという思いが葬儀を盛大にさせ、立派な仏壇にする。
大枚はたいて立派な戒名をつけていただくのもそう。
時代は変わっても親の愛は変わっていない。

 

我が子や愛するつれ合いの場合は豪華に、長寿で亡くなった親の葬儀は簡素質素に。
しかしこれもまた最近の風潮ともいえる。
葬儀が豪華か質素かは愛情のバロメーターになってしまっているのである。

 

六十年ほど前までは儒教の教育もあり、とにかく親の葬儀は派手に、それが親孝行の証であった。
アジア諸国や世界的に見ても先祖を敬うという教育が支配的である。
日本や先進国ではこれが逆転してしまったわけである。
戦後生まれの親たちは必死で働き教育程度も高く、子供にも優しくなった。
我が子の才能を伸ばせるのならと、習い事や塾への出費も惜しまない。
買ってあげられるものは無理しても与えた。
戦前の親たちとは比べ物にならないほど民主的かつフレンドリーである。

その結果が「親の葬式は質素簡素で」という子供たちのファイナルアンサーなのか?

 

もちろん子供たちだけでなく、当の高齢者たちも「みんな忙しいしわざわざ葬式なんぞに来ていただかなくていい、子供を含め他人にも面倒はかけたくない」と何か新しい謎の宗教かと思うほど同じ答えをするのである。

 

今の高齢者たちは、さほど愛情を受けた記憶のない頑固で怖い父親の葬儀を慣例に習って盛大に行った人たちである。
冠婚葬祭でしか会わない謎の親戚との繋がりも面倒なだけ。
そんな後悔から自分のときはそうはしないという思いもあるようだ。

しかし、本当にそれでいいのだろうか。

 

私の親が亡くなった時、葬儀に参列してくださる親の友人知人に連絡する際最も役に立ったのが、残されていた住所録と年賀状だった。
この二点でおおよそカバーできたと思う。
しかし戦後生まれの中高年にとって今は携帯電話とSNSの時代である。
住所録は携帯の中だから見えない。
見られたとしてもどれが友人なのかわからない。
虚礼廃止が進み年賀状は出さなくなり、親戚との繋がりも消えている。
中元やお歳暮も贈らなくなった。
父親族は家で肩身が狭いせいか、子供のころとは比べ物にならないほど大きく立派な家に住んでいるものの、友人を呼ぶのはまれである。
子供らが親の葬儀に呼ぼうにも連絡先がわからない。
というより、顔はおろか名前さえ知らないのが現実である。

 

高齢化が進み八十、九十歳まで生きるようになると、友人知人が生きている保証はなく、生きていてもさすがに遠方の方に声はかけづらく、当人も来られない可能性がある。

 

さまざまな時代の変化で故人の友人を呼ぶにも呼べず、盛大にしようにもできないのかもしれない。
しかしこれはあまりにさみしい気がする。

 

葬式は残された家族にとって故人がどういう人だったのか、友人知人親族から教えてもらえる最後のチャンスと言っていい。
「わざわざ来ていただくのは悪い、迷惑だ」と言うのも、当人がそう思うのはわかる。
日本人らしい謙虚さの表れともいえよう。

では、親しい友人が亡くなった時、何も連絡が来ず、風の便りに亡くなったらしい、と聞いて、あなたは「ああよかった面倒だし、迷惑だからな」と思うだろうか。

「なぜ連絡くれなかったのか。必ずや駆けつけたのに」私ならそう思うのだが。

 

一生に一度、死んだときくらい迷惑かけたからってなぜいけないのか、参列したくなければ行かなければいいだけの話だから、理解に苦しむのである。

 

昔と違い今はライフスタイルが自由設計の時代である。
ゆりかごから食事、服装、教育、仕事、葬儀まで自由設計。
自由とはすべて自分で責任を持って決定しなければならないが、これは非常に大変で面倒なことだ。
勢い意図とは真逆の、最も簡単安易な方法をとりがちである。

空のコンピュータを買って、ソフトをすべて自分で選んでインストールするのは面倒な作業である。
洋服もオーダーメイドは廃れ、プレタポルテ万歳の時代である。
その点、冠婚葬祭に関しては数百年かけて人類の英知が作り上げたマニュアルの下にできているのである。
こまかで面倒な通夜葬儀を一週間にわたってこなしているうちに、悲嘆にくれるのを少しは和らげ忘れる時間をくれる。
初めて会う故人の知り合いや親戚と話すために気丈にふるまう。
この一週間があって、気持ちを立て直して自分の人生に戻れるのだとも思う。
ただし、そんな人の気持ちに付け込んだような商売がまかり通っているのが情けないが。

 

ともかく、その時の流行だからといって人生の節目であるセレモニーを新規オーダーメイドする勇気は私にはない。
過去の重要なやり方を突然変えるとき、何かとてつもないしっぺ返しが待ち受けているような気がするからである。
科学への信奉やゆとり教育もしかりである。
その影響は五十年、百年後にやってくる。

 

お墓参りにいたっては、子供たちにとってただただ面倒な行事である。
なければ幸い、持とうと思っている人も「面倒だからネット墓地でいいんじゃない」となる。

 

私の例で恐縮だが、きょうだいを二十代で亡くしている。
その時の母親の嘆きはただ事ではなかった。
地方から東京に引っ越してきており、親戚との付き合いも薄かったため、お墓がなかった。
母親は不憫なわが子の安住する場所がないと悲嘆に暮れたものだ。

こうした理由で我が家は墓を持ったのである。

 

それでも信心深くない私は、墓参りは年に一回、お盆かこの秋彼岸のどちらかで済ませているのだが。

「お墓なんていらない、家なんかいらない、お金なんていらない、学歴なんていらない、美貌なんていらない」

 

こうおっしゃる方々は、いらないといったものを持っている人たちである。

 

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蓮の花

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彼岸花

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はちすば